ー 早春満ちて、春 ー




非意味、世界、その不思議a

やがて



チューリップ咲いた







早春満ちて春







その、自分。
にて、了解します






人は誰しも、この自分。

この、自分で。

それを得なければならないでしょう。


その了解は、もちろん、その自分、に属しているわけではないのだけれど、ここはどうしても、その自分。にて了解されなければなりません。と言います。


すなわち、その自分、とは、なにか。



どんなに微細な、繊細な、意識に捉えにくい経験としても、 了解。これは不可欠です。



そのとき、空想は空想としての位置に置かれることができ、そうではない、この生においてただ、未知ながらの道、を生きるでしょう。


あるいは全く世界、であり、世界に浸透するかに見えながら、けれどそれは、知ってる、知らない・・・既知未知に嵌らず、どう表現してみても常に、不言明があることに気付きます。


そのとき、神 は、なにか空想の言葉、ではなくなるでしょう。



人が自分を、なにか自分、に閉じこめているなら、理を解されていない、なにか、です。理解されていないとき、それは曖昧で不明瞭、明らめず不確かな、なにか、です。それを、無明といいます。
そのような自分、とは、まるであたかもあるかのように・・・感じられてる、考えられてる・・・けれど、実は世界の機構の働きに、ただ拠ってる、漂ってる、だけ、かも知れません。


ある、わけでもないのに主体であると疑わず、漂うが如しの状態にあること。それを、無明といいます。



その自分、で、それ、を得る、それとは誠に、それ自身。その自己です。

理解されたなら、自分は単に自分です。



何ものでもない、だけどそれ自身であるところの、自分、です。




この、違いは、絶対です。





それ、は安楽だろうか?

幸福だろうか?

ワクワクするだろうか?

或いは、世界のなにかを切り捨てた、

聖人君子のようなものだろうか?






この、世界の、なにかだろうか?





いいえ。

それは、未知です。

それは、それ、なんです。



No.2211 - 2009/10/13(Tue) 21:57:33 −





すみれ





総てを孕んでいる、この日常、それ、に人が真に触れたとき、経験値からくる 自分固有の認識 を超えることができるでしょう。総てが稼動している故のそれ、ということ、ここはある意味、意識、の必要が、ない、とも言えます。それは隠されている、ということではありません。



そのとき、



ことさら、総てがある、なし、そう、である必要、がなしに、理解できることが在る、ということです。でなければ、総てを擬似体験するために、イタコになったり、いつまでも世界を調べたり、できるとして何回も生まれたり・・・することが必要、になってしまうかも知れません。



そのとき、



世界を鏡としてだけ、生きる必要がないでしょう。総ては自分、である必要がない、なぜならその理解は、知覚に依存できないからです。
愛としての共感、慈しみがあり、それ故に理解が可能になりながら、この世界、ことさら自他の分離、融合の必要がないようです。



あるとして、




どうしても、正当に、それ、に達する、必要がある、だけです。


そして尚、日常に生き・・・・泣き、笑い、怒り、苦しみ、もだえ嘆き、喜び、愛し、楽しみ、味わい・・・・




けれどそのとき、それがそう、である必要がないこと、これが必然です。




No.2484 - 2010/04/02(Fri) 20:46:15 「覚醒」 掲示板 −









たとえば、鬱の人が鬱の人を治療しようとしています。
鬱になった人は、鬱の人の状態を、ある程度理解することができるかも知れません。けれど本当は、治療する人は、鬱を超えていることが全うに、仕合せでしょう。


そんな、見たくない自分を隠している、たとえばその鬱になる自分を見ようとしていないけど、人の鬱を直そうとしてる人に、まずは、自分を治療しましょう、とは酷かも知れません。その人は、人を助けてる、という自負で、かろうじて正気を保っているかも知れないからです。あちこちで、なにか言ったりするのかも知れません。過剰に係ることで、大丈夫としておきたい、その自分でありたいのかも知れません。或いは、そうしたことのすべてはとても、その人にとって大事なことかも知れません。


そんなとき、その人にも、相手にとっても、総てが誤りでもないことが困難かも知れません。嘘と本当がどこか混ざり合って、とくに嘘でない気がしてしまうのかも知れません。そして、宇宙はなんでも許している、それが神だ。なんでもどうでもいい、それが愛だ。と思うかも知れません。そのようかも、知れません。


自分がないことに気付いても、それだけなら、その人にとっては問題かも知れない、けれど世界にとってはどうでもよいかも知れません。事実、世界とはなんでも、どうでもあれるかも、知れません。


なにか硬直してしまった状態の精神を、得体の知れないところに行った、至った、と誤解することすら、できるでしょう。なにか素晴らしい共感、一体感、幻視その感覚を愛とみて、進むことができます。それでも尚、自分を騙さないで懸命に進むことができるなら、なんと幸いなことでしょうか。けれど人は、了解し、理解されているわけではないその現象であるところの自分に、簡単に騙されてしまいます。


そこでたとえば、精神世界の商売が繁盛しています。癒す人、癒される人。先立つものがなければ愛は生きられないと、堂々と、または控えめに言われます。法外に金品を要求されたりするのかも知れません。法外でなければよいというものでもないでしょう。先立つものが互いに同じとき、罠にかかることができます。として、それも浮世として、学ぶことができるなら大変に幸いです。感謝して、学ぶことができるでしょう。けれど、気付いていて尚、騙しているなら、有能であったとしても、共感を得て慕われたとしても、成功していたとしても、なにか、どこか変、かも知れません。でも、なにが変なのか、わからないかも知れません。正確に理解されていなければ、違いが判らないからです。


そうした人が、色に譬えて、白いほう・・・と見えるとして、白はとくに優れてるわけではありません。ただ人は、誰でも、愛し愛される、その人です。誤まりつつ、苦悩しつつ、健気に人は成長していくことができます。この世界は、なんでも、どうでも、いい。人は、そこでこそ、人は、成長していくことができます。


そして尚、その白。違います。

違う、と言います。



たとえば白とは、明白です。

白は白。白はただ、明白です。




世界は、不確実膨大無尽蔵の様相といいます。

世界に照らし合わせること、また、関係に埋没しているだけとしたなら、理解は不可能です。



完全にも、不完全にも、無関係。と言える、それが、それ、です。

どうでもいいのに、どうでもよくないのです。

そう、でなくてもいいのにそう、です。



身体と精神を非常に清めることが、とても大切な場合があるでしょう。思考がその上で効果を得て、正しい理解の道に入ることができます。


自己に深く、沈潜すること、から始まります。
自分と人を真実に助けるのは、そこからです。そのとき、愛は、愛。ということができます。




2010.6.2


円




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