どうしても、そのようです。 それは いま、ここ。 総ては、ひとつ。 総ては、自分。 ということでも、ありません。 なぜならそれとは、世界に照らし合わせることのできる、いわば代替可能なことでは、ないからです。 けれどここはどうしても、人は世界で生きて、世界のなかで世界でありつつ、その不可知、を学びます。 経緯として、ありとあらゆるその総て、美しいこと美しくないこと、誠実やそうでないこと、を用い用いられて成長し、尚、正直になって、精進していくことが可能です。さまざまな道筋を辿ること、たとえばいくつもの拠り所、たとえば信条を糧にしながら成長する、それはとくに問題ではありません。人が本気であるなら、滋養となり得るでしょう。 ただここで、正しい意味での飛躍が必要です。 飛躍、とは学ぶ、その地点、正にそこで、起きていざるを得ないのです。 そのためには、何が何でもそこに追い込まれる、追い込む、すなわち機が熟す、必要がある、といいます。 いま、ここ。 総てはひとつ。 総ては、自分。 これはとても、大切な作用として働くことができます。 総てはひとつ。とはもしかすると、自他、或いは、なにものか、この事態である自体への思いやり、共感、或いは、総てを映し出す「その視点」への大事な愛と敬意の表現となり得ます。人によっては、緯系の表現に於いての重要な着地点といえるでしょう。或いは、無常であることの背景の表現であり、偉大ななにか・・・摂理と自分が繋がっており・・・あらゆるもの、状態とは、可否差別なく等しいものであろう、とのことかも知れません。 けれど、人がもし、正しく直観、或いは思考・・・即ち世界の機能を用いるなら、世界に於いて総てはひとつ、を生きようとするとき、どこか辻褄の合わない、理不尽であることが理解されるかも知れません。というよりは、もし、ひとつ、の状態が本当に飛躍のなかで全うされたなら、すでにそれは別の表現となっているかも、知れません。 言葉は正確に使うことが可能です。この意味に於いて、総てはひとつ。との表現は、無理を生じさせ、健全な生を営むことは不可能かも知れません。けれど人はわりと曖昧に生きていくので、そのあたりはあまり気にしないのかも、知れません。それでもとくにかまいません。ありとあらゆることがそれはそれです。 ある意味それは、誰にとっても素材は同じ、とのこととしても。 そして尚、問題は、総てはひとつ、これで万事OKだ、で済まされてしまうこと、と言えます。 いま、ここ。は、意識が散漫になる人への対症療法として働きます。そのこと自体は意識が知る以上に、自身に深い作用を起こすことができるといえるでしょう。けれど、そして尚、不可知、ということを、人はまだ世界の範疇に留まり、知覚を基準に理解していると言えるのです。人はまだ、正当に至っていません。 なぜ、嘘でないのか。 なぜ、そう、なのか。 なぜ、正しい、ことは大事なのか。 なんでもありのこの世界で、なぜ、そうなのか。 人は先ず、意識に上る以前に了解せざるを、得ないでしょう。 直ちに大事でしょう。 先ずそれを伝えたい、と思うでしょう。 なぜ人は、無に帰する、かも知れないのに、こう、なのか。 腑に落ちる、 肝に銘じる、 とは、そういうこと、と言うことができます。 |