ふしぎなたまご

非意味、世界、その不思議a


ふしぎなたまご






みどりの
のはらに


ゆきのような
まっしろい
たまごが
おちていた


いったい
だれの
たまごでしょう


だれも

それを

知りません


ディック・ブルーナー






青い鳥黄色い鳥a






人は本当に、知らない、のです。




不思議なたまご





人は知らないのです。


そのことを、心底、心というものがいったんなくなり切るまで、知った。なら、漸く人は、それ に触れ、理解されたそのときはじめて、成長の意味がわかるでしょう。空想と、そうではない、未知ながらの道を了解するでしょう。無明と不可知、それが、同じでないことが、わかるでしょう。同じでなくてよいことが、わかるでしょう。



人はそこに正当に至るまで、成長、その大事を見ることが、できません。


了解されたとき、


総ては空だからどうでもいい、ではなくなります。不確実、膨大無尽蔵の世界の有り様のなかで、たとえ可能としても、できないことは、できないのです。言葉は言葉としての本来の位置を見出し、区別なきところ、また区別は区別、諸処折々に正しいこととそうでないこと、として正当にものを見、そのように見ることにも、問題がなくなります。それが疎外でないことがわかります。


たとえば想像の神。また、何か秀でたものになろうと逆立ちして生きる必要が、なくなります。空想のなにか、になろうとしてること・・イカをタコにしようとしている必要が・・・なくなるでしょう。それは人が普通になる、普遍が通じるとの意味での、普通になる、ことです。

経験され、了解し、さらに自身に於いて理解されることによってそのようであること、は必ず、それ以前、ではありません。


人は無明、概ね不理解、曖昧、すこしの理解・・・そこから抜け出さなければそのままです。それでも世界は、充分、味わい深く生きていくことが可能かも知れません。それはこの世界の、なんでもどうでもありの様相、総てそれだ、だからそれ、でいい。に、留まることとも言えるでしょう。


ただ人は、この自分、というところを用いて、不可知。未知。それ。を了解し、理解し、成長するものとして、この世界に生きることができる、かも。知れません。



たまごとノンちゃん



円





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