たとえば世界のなかで、自己が自我とその社会を見るとき、自己には理解があります。なぜ、自我がそのようにあるのかが、胸を痛めつつ、わかります。自他への慈悲が生まれます。非情な仕打ちを受けたかも知れないけれど、理解があります。あれほど、胸を掻きむしられるほどつらい思いをしたかも知れないけれど、自己は、それに関わった、という自分を学びます。
理解できない状況が定着されるなら、いつまでも、他人や世界のせいにしていたい、自分が正しいと思っていたい、ただ片寄っていたい、ことがあるかも知れません。悲劇のヒーロー、ヒロイン、英雄願望があるのかも知れません。或いは、してこなかった忍耐を学んでいるのかも知れません。内容はどうでも、いいのです。ここでも人は、傲慢、優越、その欲望を見ることができます。卑下することでさえ、その形をとった傲慢です。それでも、理解することができます。学び終えるまで、世界は似たような状況を映してくれます。たとえば片寄ることには必ず、隠れる、世間に隠れている、などの見返りがあります。隠れて自分がそうであることを見ることができず、ただ世間や他人がそうだから、と思うなら、片寄りです。物事の本質を認めることができないなら、それは自我です。自我はそれ自身を、なんとしても昇華していくのです。こうしたことは結果的に、自他、自己とその世界への奉仕ということができます。
傲慢、また優越への願望は、大事なものとして人に与えられています。それは、自己で在りたい、在るはずだよ、と語りかける、人がその内奥に持つ微かなそれが、自我、または世界の範疇で、上手く表現されず限界があるときにその様に現れます。けれど悲しいかな、未熟な自我でしかないなら、ただ自他ともに迷惑な、むやみに混乱と苦しみを提供する傲慢であり、優越、その欲望です。それは片寄りであるために、他から奪おうとし、もしくは不均衡が作られ、その苦しみです。
正中正。自己であるとき、それを生きて学ぶことができます。そのとき、片寄っても片寄らず、どこにいても中道、を学びます。自己は中道であり、そこから外れる、道を外れる、こと、その実際を見ます。自我はただ片寄りであるために、見ることができません。
そして尚、人は人ということができます。人は必ず、ただ自我ではないそのことを、了解することができます。
好雪片々別處に落ちず
なんて美しいのでしょう。これを味わいます。この美と真実に、驚嘆せざるを得ないでしょう。
一片の誤りもない、それが一切です。その 不可思議 不可知 の故に、世界は人を学ばせ、成長させることができます。
世界。それは縁が起きている場所であり、総てが行われている場所であり、それを縁起と表現します。あらゆる物事、事象は作用し合い、それを因果と表現します。因果によって人は、成長に即した諸処の学びを得、理解することができます。それが因果の果実です。それは添え木のようなものであり、内容に囚われると困難になります。内容はなんでも、いいのです。人が汲みとった成長の果実、エッセンスがその要旨であり、因果とは、ただ作用によって人が得る果実のことです。
常に正確な要旨、学びを得るためには、人は自己である必要があります。
そう、でなければすべては誤解、そう、であればその通りということができます。
縁起は、絶対としてこの世界で行われています。それは秩序であり、実在その自己、その世界です。それは人に、 眼耳鼻舌身意、その働き、この世界として顕れています。
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