イカは焼いても。

非意味、世界、その不思議a


イカは焼いても





海景b




この世界で、世界である自己として人ができること。それはとても当たり前なこと、だけです。
誰もが身に滲みてる普通のことです。

嘘をつかず、自己を生きる。・・自己とは、奪わない、盗まない・・自他を愛し慈しみ・・分かち合う・・それだけなのです。

自他の関係、また、ただそれだけではない、というところを学べるこの世界だからこそ、他があることによって成立する、或いは成立しかねない問題に直面し、そこで自分、を学びます。それはひたすら、人がただ、愛する子供に教えるように、なにより自らが、良い悪いではない、善いを。この世界で学び、生きて、学ぶ、ことだけです。

そのために人は必ず、ただ自我ではなく、自己であることを学びます。自我として自己を学び、自己が自我その機能を学びます。双方にて理解します。

奪わない、盗まない、分かち合う・・そこを正確に理解して生きるというチャレンジ、これは不増不減を生きることです。そして自他この世界の総てがあるから、見ることがあり、比較することからも学びます。傲慢、優越、そうした片寄りから学ぶ、それは、確実に平和で在るための布石です。人は正直に見て、初めて学ぶのです。

人に平和がないなら、ただ解消していない、理解されていないのです。




海景c




平和。

それは、この世界の有り様に、無関係に関係し、関係しながら無関係に、人は、それ、そのものである 平和 です。


ただそれ、そのために、世界は不確実にして膨大無尽蔵の有り様で展開し、人は片寄りであることを学び、片寄りながら片寄らずのそれを学び、それであるそれ、を生きています。




海景d








タコにはならない



イカa




イカを焼いてみましょう。お気に入り、アラジンストーブの上に置いても、大丈夫。8分くらいでしょうか、、。結構美味しく、焼けるのです。香ばしい匂い、ああ、イカ焼きです。わさび醤油。たまりません。マヨネーズをつけて一丁あがり。これこれ、これが、イカ焼きなのだ。


ああ、そして。思うのです。


イカは焼いても、タコにはならない。


けれど人は、世界は何でもあり、、無限の可能性があり、、というと、イカは焼いたらタコになる、と想像してしまいます。これはどうしても、自我は原動力として、そうあるほか仕方がないとも言えます。けれど、頑張れば、イカはタコになれるかも知れない。といつまでもいつまでも、秘かに思っているなら、、それは誤解というより問題かも知れません。

「ううん、念力や超能力でイカはタコになるかも知れないよ、成長して頑張れば、人は素晴らしい能力者になれるかも知れない、いちだんと賢くなれば、良い会社に入れます、生活も安定します、そしたら、人のためにもなって一石二鳥、目指せIQ100、まずは基盤です。沢山知っていたほうが、より良い。多いほうが、より良い。」と言います。多いって、なんでしょう。より良い、とは、なんでしょう。

そのとき人は、奪おうとしているかのようです。世界も苦しいでしょう。もちろん、どう生きても成長はする、けれど深刻な問題です。

そのようにして、総てが誤りともいえない表現の、微細な編み目から人は道をはずれ、世界はそれでも、人の迷いを助長してくれるのです。なぜなら世界とは、そのようにして、どのようにしても、いつでもどこでも人に添い、人を鍛えることに徹して在るのです。
人の迷いとは常に、人にまだ、自己と世界がその腑に落ちていない、そこから起こります。

人の成長は、知る、知らない、多く知ってる、殆ど知らない、、そうあっても構わないけれど、そうしたところに無関係に、起こります。

イカは焼いても、タコにはならない。イカを焼いてタコになると思われるなら、因果は誤解されています。もちろん、なってもよいのです。けれど人はまだ、理解を得ていないのです。




イカb





たとえば世界のなかで、自己が自我とその社会を見るとき、自己には理解があります。なぜ、自我がそのようにあるのかが、胸を痛めつつ、わかります。自他への慈悲が生まれます。非情な仕打ちを受けたかも知れないけれど、理解があります。あれほど、胸を掻きむしられるほどつらい思いをしたかも知れないけれど、自己は、それに関わった、という自分を学びます。

理解できない状況が定着されるなら、いつまでも、他人や世界のせいにしていたい、自分が正しいと思っていたい、ただ片寄っていたい、ことがあるかも知れません。悲劇のヒーロー、ヒロイン、英雄願望があるのかも知れません。或いは、してこなかった忍耐を学んでいるのかも知れません。内容はどうでも、いいのです。ここでも人は、傲慢、優越、その欲望を見ることができます。卑下することでさえ、その形をとった傲慢です。それでも、理解することができます。学び終えるまで、世界は似たような状況を映してくれます。たとえば片寄ることには必ず、隠れる、世間に隠れている、などの見返りがあります。隠れて自分がそうであることを見ることができず、ただ世間や他人がそうだから、と思うなら、片寄りです。物事の本質を認めることができないなら、それは自我です。自我はそれ自身を、なんとしても昇華していくのです。こうしたことは結果的に、自他、自己とその世界への奉仕ということができます。

傲慢、また優越への願望は、大事なものとして人に与えられています。それは、自己で在りたい、在るはずだよ、と語りかける、人がその内奥に持つ微かなそれが、自我、または世界の範疇で、上手く表現されず限界があるときにその様に現れます。けれど悲しいかな、未熟な自我でしかないなら、ただ自他ともに迷惑な、むやみに混乱と苦しみを提供する傲慢であり、優越、その欲望です。それは片寄りであるために、他から奪おうとし、もしくは不均衡が作られ、その苦しみです。

正中正。自己であるとき、それを生きて学ぶことができます。そのとき、片寄っても片寄らず、どこにいても中道、を学びます。自己は中道であり、そこから外れる、道を外れる、こと、その実際を見ます。自我はただ片寄りであるために、見ることができません。

そして尚、人は人ということができます。人は必ず、ただ自我ではないそのことを、了解することができます。




鷺草a



好雪片々別處に落ちず



なんて美しいのでしょう。これを味わいます。この美と真実に、驚嘆せざるを得ないでしょう。
一片の誤りもない、それが一切です。その 不可思議 不可知 の故に、世界は人を学ばせ、成長させることができます。



鷺草b
世界。それは縁が起きている場所であり、総てが行われている場所であり、それを縁起と表現します。あらゆる物事、事象は作用し合い、それを因果と表現します。因果によって人は、成長に即した諸処の学びを得、理解することができます。それが因果の果実です。それは添え木のようなものであり、内容に囚われると困難になります。内容はなんでも、いいのです。人が汲みとった成長の果実、エッセンスがその要旨であり、因果とは、ただ作用によって人が得る果実のことです。

常に正確な要旨、学びを得るためには、人は自己である必要があります。
そう、でなければすべては誤解、そう、であればその通りということができます。



縁起は、絶対としてこの世界で行われています。それは秩序であり、実在その自己、その世界です。それは人に、 眼耳鼻舌身意、その働き、この世界として顕れています。





海景e






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