言葉で見る

非意味、世界、その不思議a

見る。

見る、ことは存在意義です。
その機能の根本はまったく不可知にして、見ることには深い意義があります。


世界を見ます・・たとえば通りすがりの人・・その街の風景・・ビルとビルの合間を鳩が飛び交い・・揺れる緑の木立の景色・・通り沿いの家々の、垣根を蔦う山ほろしのその青。
すっきり晴れた空に白雲が浮かんでは、流れていきます。それを見ています。





新緑a




同じように、世界である人の感覚、感情、思考は、起きては消えていきます。それを知ります。その事態を、見ている、と表現します。意識、その機能が係わっています。たとえば喜び。胸に柔らかく広がる、振動が伝わる感覚、感情、なんて素晴らしいのだろう、と思考が湧き起こってる、その起伏を生きながら、それを見ています。


人は常に、事態であり、自体であり、そこに、見ること、が起きています。起きている事態をただ知る、ということです。自己と世界の機能として、そのようになっています。これは誠に不思議、ということができます。


見るとは、生きる事態がその通りです。身体的な目で見る、ことは象徴であり、事象としての事実ですが、見る、とはそのまま、生の理解と言うことができます。人はその身体的、精神的、またその外面、内面に拘わらず、または、認識の深浅に拘わらず、状況である世界の有り様を見、そこで自身の理解、不理解を生きているということができます。


集約されたエッセンスといえる了解(覚醒、その真実)を、世界の機能である意識が理解することは大切です。了解された自体は、ただ世界の範疇には、ありません。そこで、人がその了解を生きるために、人に起きたその変化、変容を、意識は正確に理解する必要があると言います。すなわち、正確に見る、必要があります。





幸雲a





言葉で見る。




言葉にすることができない、とよく言われます。それでも言葉は、不思議の国の杖のようです。人に与えられた贈りもののようです。なぜなら、自己、世界の機構にただあるのではないそれ、は、世界に無関係にあるにも係わらず、その自体を、言葉を通じて世界に表明することが可能です。世界に無関係に関係します。そこで初めて人の意識(世界の機構の一部と言える、意識)は、自らの変容、成長の意味、を、この世界の機構に則って正確に理解することができるのです。



世界と自己を言葉によって理解する。表明する。これを、言葉で見る、と表現します。言葉は方法です。ここに至って文字通り、法の方、となることができます。



ある、でもない、ない、でもない、どうでも、あり、どうでも、ない、、この世界に、言葉は、無関係に関係します。言葉は、この世界と無関係だからこそ、事態を正確に表現することが可能です。関係しているなら、それは相互作用が起きることであり、この意味に於いて、ものごとが正確に表現されることは不可能です。言葉は、世界の事象とは基本的に無関係にある故に、事象を正確に表現することができます。言葉とは、不思議の国の、杖、なのです。そして、人の成長の如何に関わらず、つまりどんな状態においても、人は言葉を使うことができます。





露草群生




たとえばこの世界は、ときには人が、自分を騙していることに気付かないまま、架空の自分に正当性をもたせるために嘘を言う、思考する、なにかする、ことすら可能です。人が未熟であるとは、自分が自分を騙していることに、気付くことができない状態、またはその有り様、と言うことができます。身口意の不一致、また、身口意、自己との不一致、ということが起きています。


人に怠惰があるとしましょう。必要以上に楽をしたい・・・それはその様でありたい欲望・・その自我であり、自ら理由を造作し、正当化し、それを自分と人に隠していることで、正にその様に、あることができています。明らかにされるなら、正当化は存在が困難です。



内容の如何に関わらず、こうした嘘が潜む場所には常に、微妙にであれどんな形であれ、無意識にであれ、傲慢、優越、その、欲望。且つその自分としてそう在らざるを得ない状況、が関係しています。人は、人である限り、必ずここを学び、昇華していく必要があります。自我の状態では、自分によってのみ解される自分すら、正確に見る、ことが非常に困難です。世界の機能が働くことで、あたかもあるように見なされる・・に過ぎない仮の自己が、未熟なままに主体として生きようとしているようです。その自分を、ですがそれでも、その解らないままにでも、可能な限り嘘をつかず、真剣真摯に言葉で見る、理解します。




それは正に嘘を付いてる、ことを他人と自分に隠そうとしてる、そこまで辿り着くためです。書き出すことで、決定されたこととして理解が進みます。曖昧であることは、愚鈍と停滞を招きます。知りたくないから、曖昧である可能性があります。知ったなら、その様にあることができません。そうしていたい、という、その、実はすっかりどこかで気付いているかも知れないけれど・・世界は示唆しているけれど・・決して人にはそうだと言えない・・・認めることができない・・・胸が締め付けられるかも知れない・・・つい目を背けたくなる・・・というそのあたり、嘘をついてまで正当化して守りたいそれ、正にそこ、かも知れません。なぜそこまでして、そう、なのでしょう。これを言葉で正確に見ていきます。



一方で、人に自己としての変容が起きていても、了解が仔細に及んでいない場合に、言葉で見ることは、意識に正確な理解と秩序をもたらすことができます。理解がなかなか進まないとしたなら、見たくないなにか、捨てたくないなにかがある、ということかも知れません。
それはもしかすると、姿勢、様式、大事と思うなにか、かも知れません。些細な誤解が、大きな壁となるかも知れません。或はただ、時機でないというだけかも知れません。
ただ人は、ここで必ず、自身を理解されなければなりません。誰もが、自分の責任において、自己を学ぶのではないでしょうか。



この人生、生きるという運動の総ては、日常の瞬瞬が、その了解を生きるチャレンジ、その学び、理解であると言うことができます。言葉はそれを助けています。



なぜ、そこまでも、意識は学ぶ必要があるのでしょう。なぜなら、その 了解 は、世界に属しているわけでは、ないからです。けれど意識は、世界の機能として存在しています。そして、言葉で見、さらに可能であるなら書き出す、ことはそのまま、瞬瞬に決定されたこととして、意識が学びます。嘘をつかず、自身を言葉で見るとき、理解に一層の徹底をもたらします。理解とは、理を解する、と書きます。了解。それは文字通り、理を解されたなにかです。具体に依って表明、決定されることによって、自身であるそのイデアに理解としての密度、その徹底、が起きています。

人は言葉によって、決定された自身、その了解を正確に見ることができる、これは要点です。



意識は、ただ膨大ななにか・・・なにか総てをぼんやり示唆されても収拾がつきません。それは機能として既に焦点であるために、その作用自体に人が自ら矩を見出せないなら、いくらでも無責任になってしまえる・・・いくらでも外れていってしまえる・・・それほどまでに膨大な可能性の只中を、けれど人はいつでも、それ自身に依って生きている、と言うことができます。





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