素直それは、ただ出てくるままの感情、思考そのままに生きる、或いは、人が生まれたままに新鮮に、ありのままの様相で生きる、ことでしょうか? そうではない、と思います。 ありのままに生きる、とかいうことは例えば、なにかと思い通りにならない、どこもかしこも生きにくい社会では、貴重な感じに思われることがあるようです。 なるほど、自分の思考、感情と行動が一致している、との意味で嘘がないので、素直な感じがしなくもありません。 ただの我が儘すら、どこかしら、勇ましく感じられてしまうかも、知れません。 ですが、人がありのままに生きる、とは表現されるそのままなら、とくに素直とは無関係です。 例えば思考、感覚、感情、人の意見、信条。そのような、この世界のなにかに依るだけなら、素直というには、無理があると思います。 |
それなら、分別がある人が、大人らしくものごとを分別して頑張って、人から良い人、と思われることが素直とは、もちろん言えません。 そこには矛盾があり、嘘を解消するための努力が必要でしょう。大人らしい分別は、素直とは無関係、と思います。 ![]() 人が成長していくことは、とても、不思議です。 成長とは、人が人としての変容を経てから、その了解を生きる、若しくは成熟すること、と言えるのではないでしょうか。 変化と変容は、それ自体がいつ起きているか、わからないほど微妙であるかも知れません。人によって、様々な起こり方があるでしょう。 変化したなら、未熟であるが故に現れていた、その我が儘、その未熟な自我は、機能事態はそのままに、まったく新たな視点を得ています。 自我は自我のままに自己である、と言われる所以なのでしょう。 それは強いて言うなら、位相の変化とも表現できるのかも知れません。 あたかもあるかのような自我、は本来はある、わけではないのだけれど、 人はその機能に振り回されることなく、機能を十全に生きながら、自己であることができます。 ここで自己は、現象に無関係に関係しているなにか、ということができます。 自己であるとは、成長を得ていることを意味します。 ![]() そして尚、 素直。 人は素直であること。 これは鉄則です。 変容を経ても、素直であることを見失い、曖昧、或いは頑固であると、 変化自体を正確に理解することが困難になります。 なぜなら、変化、変容とは、人が飛躍せざるを得ないこと・・であるからです。 未熟から成熟への変容、それは飛躍です。 ![]()
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