この世界は、ある、でもないでも、ない、あるでもないでもどうとも、言い得ず、表現不可能、不可知です。人はその不確実性ゆえに、この世界に魅了されて止まないのかも知れません。 この日常。この生活。この、自己。 花はなぜ花であり、鳥はなぜ鳥であり、人はなぜ、人であるのか。なぜ、そうなのか。 世界はただの偶然、いや必然、神の計らい、摂理、と言えるとして、それを人は、本当に知っているでしょうか。数学や物理学、科学が、それを発見するでしょうか。出来るような気がする、ことを希望、と言います。 それでも学問は、人を熟考させる、という効果があると思います。 思考可能なあらゆることは、あり得るかも、知れません。想像は広がります。宇宙人が話した宇宙物語もあるそうです。ちょっとは、楽しいかも知れません、なんてロマンでしょうこの世界、なんて壮大にして、緻密で繊細なのでしょう。ありとあらゆる網羅の仕様、人はそこに、驚きと、畏敬の念を禁じ得ないのです。 けれどそこに、ただ、安住してしまうとしたなら。 一体、自分とは、世界とは、を知る、ことができるでしょうか。或いは、知ることが出来ない、ことを知ることが、できるでしょうか。根本事態が不明なら、その上でなにか積み重ねてみても無意味・・かも知れません。けれど、その無意味に意味を持たせることすら、可能な世界です。 |
そして尚、 人は、ここで事実を見ることができます。 法はなぜ、世界に満ちているのでしょう。愛が満ちているのと同じように、それは世界に満ちています。道理は満ちています。それは、ここ、や、いま、や、きのうやあそこ、の説明不可能。場所とも言えない、なにかです。 それを、未知ながらの道、と言うことができます。人生には、どうでもよいが、どうでもよくない、未知ながらの道があります。これを、この世界が可能にしています。 世界は、あるでもなく、ないでもない・・・とも言いい難し、表現不可能、不可知な様相で、その一筋の道を、生きることを可能にしているのです。 それがそうである筋道。わけ、を理由と言います。 理由は、理(ことわり)の由、と書きます。 全く理由そのものであるが故に、それは理由の域を超過します。 故に、理由なき理由、と言うこともできます。 それを、法。と言います。 |