経緯

非意味、世界、その不思議a

人が生きていくことを
経緯と言います


経、とは人が、それ自身の本質に、垂直に拘わる有り方ということができます。

緯、とは人が、それ自身と世界に、水平に拘わる有り方ということができます。

人がこのどちらでもある(これは比喩ですが、)なら、真正に、普通、ということができます。


人生は、縦横の意図で編まれた織物のようだと言われます。そして世界は確かに、自分の人生物語に繋がっているようです。非常におおざっぱに言うなら、そのようにも表現ができます。実際には、そうした物事、事象について、事象そのもの、とはなにか。そのもの、とは何か、あるとはなんだ?ない、とは?。それが何だかを、人は知ることができるのでしょうか。という問いがあります。



波xy



人にとってこの世界は基本的に、世界を自分と執拗に分離させながら、即ち、対象化させることによって、いわゆる自我、を育てやすい環境と言ってよいでしょう。


ところで、世界には、接触、する機能があります。おおざっぱに言えば、その働きがなければ、物事が起きることすら、人が物を見ることすら、危ういかも知れません。その意味での接触、その機能があります。


たとえばここで、人としての機能。眼耳鼻舌身意。その働きが世界です。感受すること。思考すること。意識すること。或いはされる、こと。この世界に元来備わった働きを、機能ということができます。


世界は機能しています。


ここで、何らかの物事に接触、執着させられる働きから、あたかもあるかに見なされる状態 としての、そのいわば仮の自己を自我、と呼ぶことができます。


人には元来、物事に執着し、集中させる機能がある故に、その働きに集中させられる・・・または敢えてそうすることによって、自我、即ち、自分が自分だと思う自分は、あたかもあるかのように思われています。この世界は、自我を育てやすい有り様を呈しています。自我はとくにわるいものではありませんが、どうやら、成長する必要がある、ということのようです。



波xy



自分がこの身体、肉体だ、魂だ、と思うとき、世界には無数の肉体があり、魂があり、無数の自他の関係を見ることができます。(実際には、思う思わないに拘わらず、それら世界は機能していると言えますが、とりあえず、そのように表現します。)この意味での関係性とは、常に水平方向にあります。この意味で常に世界は緯、ということができます。


この関係性、即ち横方向の働きかけに極端に向かうとき、人は片寄って緯系の表現である、と言うことができます。人が成長する上で学ぶ、一形式と捉えることができるでしょう。この状態では、自分と世界の有り様の違い、別であること、分離、に意識が向かい、そこに執着させられます。


そのようにして人が生きる中で、様々な経験や学びがありながら、何らかの形で自我と言われるこの様相、強調された分離が世界の範囲で極限状態にまで向かうと、反転の投影により、世界と自分はひとつ、に一時的な終局点が見出されることがあるかも知れません。それでおしまいではないにも関わらず、人はここで成長を止めてしまうことがあります。この意味に於いては、自身の理解に、一層のチャレンジが必要となります。



波xy



たとえば、世界と自分がひとつ、とはどういうことでしょう。確かに、周囲の事象は自分の人生の某かに関係がないとは言えません。



ベルリンの壁が崩れたとき、同じように自分の中の精神的な壁が崩れた、大きな変化があった、という経験があるかも知れません。犬や鳥を見て、まったくその状態であった、という人がいるそうです。まったく自分が、宇宙そのものである経験をする人もあるようです。そうしたことは、とても大切な了解でありながら、それ故に、正確に理解される必要があります。



この世界と自分がひとつ。それは、極からものを見ざるを得ない状態であるなら、経験不可能なことと言えます。なぜならそれは、偏ることが出来ない、増減のあり得ない状態だからです。


不増不減。重要なのは、この理解と言えます。可能な限り重要なのは、ここでいわゆる自我とは、仮の状態であり、自己は、自我、と呼ばれるなにか塊ではない、との了解、その理解と言えます。



そして尚、世界と自分はひとつ。まさにその通りながら、何気ないこの日常を生きるとき、世界と自分は、ただ分離、でもなく、ただひとつ、でもありません。




波xy




一方で、自分とは何か?の問いと共に、自身の有り様を掘り起こす、縦、即ち垂直方向の有り方に於いては、人は本質に直結する経系の表現である、と言うことができます。自己を知る、この探求に於いては、どこにあろうと最終的に人は必ず、ここを通ることになるでしょう。



なぜ、縦方向か。



社会の中で、様々なことが起きているかも知れません。物事、事象、人のこと、その世界には多くのことがあるかも知れません。そこで、敢えて移り変わる事象に重点を置くことなく、世界に拘わっている、まさに自分自身に入っていく、自分自身を掘り起こしていく、と言う意味での縦、垂直です。その意図です。どんな状況下に於いてでも、入っていくべきはまず、その自分。となります。


これはチャレンジです。なぜなら、世界は、意識を捉える、様々に興味深い事象で満ちているからです。そして尚そこで、なぜ、自分はこうなのか。問いは、常に自身に向かいます。他人ではありません。社会の物事でもありません。あり得ないのです。


それは、社会に対して無関心にあればよいということでしょうか?まったくそうではありません。社会に充分に関わりながら、その自分を掘り起こします。もちろんできるなら、社会が言う通りの関係性を、生きる必要もありません。なぜなら、どうしたって関わるのが、この世界に生きている、ということなのです。
ここで探求するべきはその、自分。常に充分です。




波xy




たとえばどんな道を行っても、構いません。本気であればどんな場所でも、大丈夫です。この意味で、人生はまったく平等です。今いるところ、その場所、その事象、その形態。それは人それぞれが個々に学ぶ仔細であり、道なき道の所以です。至るところが道となり得ます。けれど、ただ、正真正銘本気。でなければなりません。中途半端ではなりません。


それが何だ?そんなこと、この自分に関係あるのか?と思うでしょうか。


ここで重要なのは、その自分とはなにか。それを知る、ということです。

これがなければ始まらないにも関わらず、人はこの要点を逃したまま、人生を通り抜けようとするのです。



そして、どうなるか?




それは不明です。



人は自分で、探求しなければなりません。総てを失うかも、知れません。自分と思う自分があるなら・・・それは文字通りそのようです。その意味の探求なら、真摯であるなら、常にそう、あらざるを得ないのです。



それでもするのかって?




そうです、もちろんです。
何故なら、すでに世界がそれを示唆しているのではないでしょうか?
自分の周囲、それよりもその自分。そのなんとも言えない空しさ、その苦痛、その喜びすら、苦痛、ではないでしょうか?。なぜでしょう。敏感に注意深く見回すなら、人はきっと、誰でもそうせざるを得ないのです。




経と緯。 その意味で、世界との関わりが正にそのもの、となるとき、人は経緯、縦と横の最中(さいちゅう)、そこ、にいます。

人は、中道、この日常。を生きることができます。


世界に真正に関わることができるそのとき、人は正に、人であることができます。




波xy



そして尚、ここで。


世界は本当に、ある、でしょうか?

或いは世界は、ない、のでしょうか?

世界って。
世界とは。

一体、なんでしょう。


人はそれを、知っているのでしょうか。

円





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