なぜ、こんなことを話しているのでしょう。
なぜなら人は、この世界に於いて
成長しながら了解を得、自らそれを理解することが、とても大切だからです。
了解すること。真実に目覚める、或いは、覚醒、とも表現することができます。
これは、どこかの偉い聖職者や、哲学者、スピリチュアルカウンセラー或は隣人に任せておくことは、絶対にできません。
いつかどこかの人生で、などと思う必要はありません。
それに気付いたその今の、
この自分、この人生、で充分です。
なぜ、そうなのでしょう。
それは人生に於いての必要性、と言うことができます。
どうしてか?
人は人である故に、
そのようにあります。
それは、理由なき必要性、とも言えます。
生きている、ということ。その生死。
この体験、この経験のすべてが、その了解と理解を要求します。
もちろん、そうしなくても、生きていくことができています。
なので、ことさらそれを、道 と言うことがあります。
世界と人生は、なんでもありのよう・・・ではないでしょうか。
溢れる喜び、辛いいたみ、ありとあらゆる喜怒哀楽、様式、人々、その現象・・・
あるでもなく・・ないでもない・・・まさにあらゆる状態がその、世界です。
時には、生きることは、あまりに非情で、つら過ぎて、
または、無意味さに疲れ果て、自死しようとする人があります。
やむを得ない事情が、あるのでしょう。
それも人世なのでしょう。それは虚しく悲しすぎます。
または、死ぬことを恐れなくなって、だからもういい、
という人もいるそうです。そうですか、なんでもありの世界です。
けれど尚、言ってみます。
それで本当に、もう、いい、でしょうか。
その意味でそうできるなら、まだ先があるということかも知れません。
しかし、物事はまったく、良い悪い、正しいか否か、では言い得ません。
なんでもいいし、なんでもあるのです。それは、なにもない ことと等価です。
そして尚、言ってみます。
本当に、よいでしょうか。
総てのツールが、自分に備わっています。
この自己と世界が、道具です。
この意味で、人に例外がないのです。
そのために、その不思議、から始まります。
特別なことがないのです。
ゆえに、すべては正に特別と、言うことができます。
なぜ
こうなのだろう
わたしとは
何だろう
この問いは、
人と社会に求めていても、難しいことです。
意見、信条、世界に、ただ依っていては、困難です。
自分の外に、社会に、いくらでも求めることができるとして、
いつかは、世界が忠告してきます。
敏感になる必要が、あるのでしょう。
どうしても、「その自分」、に深く入っていく必要があります。
「その自分」、を、探求する必要があります。
そうでなければ、起きたことを正確に理解することがむつかしい、或いは、
仔細を確認するために、遙かに、時間をかけることになるかも知れません。
長く長い迷路に迷うかも知れません 。
誰にとっても、人生はいつまであるとも、言えません。
要点を得ることは、とても大切なことなのです。
そのためにまず人は、自身を知ろうと果敢に挑んで行くのです。
自我の働きとは、先ず正に、そのためにあるということができます。
ひとたび、そこに気付くなら。
これまでそうだったように、人生が導いてくれます。
自身の本質を見出したら。そしてそれを生きるとき。
自己が自己によって、学びを開始します。
なぜでしょう。
これが不思議です。
人は、そのようにできています。
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