なぜ、人は
この世界の仕組みに生きているのか。
わたし達は、それを知らない、ことに気付かないままに
日常を過ごすことができます。
ごく日常、この生活・・・
その出来事・・喜怒哀楽・・・
していること、して、いないこと。
考えられる、ありとあらゆることのすべてをとりあえず、
「知っている、」ことにしておいて
その前提の不可思議をそのままに、
不安定を不安定と気付くこともなく
日々流れゆくまま、生きているかも知れません。
とりあえず、今を生きよう、
世界はとにかく、あるみたいだ、
やりたいことは、沢山ある。
出来ること、しなければならないこともいっぱいだ。
社会に出て、うまく生き延びることが一大事です。
と思うかも知れません。
それは、まったく誤りともいえません。
けれど、
もしそうであるとして
それだけなら、
一体、どういうことなのでしょう。
たとえば、成熟していない 自分がある と思う人は、つらいことを避ける為に、空想を沢山します。そうしなければ、事実に直面できないと、どこかでは信じているのです。そのようにイメージしてなれることを、成長といえるでしょうか。けれども実際には、そうした「自分」が不幸であることに気付くことが、むつかしいのです。人生は日々、流れるように勢い過ぎていきます。そこで、どんなに楽しくイメージしても・・・懸命に上手にやり繰りして、周囲に気を使い世界を生きていたとしても・・・それが人というなら、哀しい気がします。
世界の働き、機能として起きている動きに捉われて、「あたかもあるかのような自分」。そうした自分として生きようとする、その様相をここでは 自我、と呼びます。
たとえば自我の不幸に気付いたとしても、どうしてよいのかわからず、結局は社会にただ、埋没してしまうかも知れません。要点を得るためには、悩むにも、こつが必要なのです。
日常の多くの些細なものごとについてでも、人は常に空想していて、その原因の多くは、おそらく人が自分の未成熟によって不安定であるためです。
空想がいけないのでしょうか?してはいけないのでしょうか?。
もちろん、危険を回避するために、空想が活用されることがあるでしょう。人を思いやることもできるでしょう。人が生きていく上での、道具とすることができるでしょう。けれどもし、自分や世界を執拗にイメージしたり、空想しているなら、人は明らかに、生を台無しにしているといえるのです。
たとえば究極は、なにかスピリチュアル世界、なのかも知れません。神、仏。人は、自分を見守る偉大な存在に依って安心したいと思います。それは自然なことでしょう。いまや人生80年。寿命は寿命に任せるとして、生きることは、大変です。けれど、人がもし、そこであれこれ空想し始めてしまうなら、喜劇であり、悲劇です。なにかの不遇は、どこかの過去に悪いことをしたから・・・と考えたりします。
その逆も、そうでないことにも、空想は活用できます。それは、まったく知らないことを知ってることにして、に於いてしか、通用しないことでもあります。実際には、過去生、宇宙人、どこかの神なら、それが正しいとも、そうでないともいえません。誤解を恐れずに言えば、まずはどうでもよいことと言えます。それはそうあっても構わないのですけど、そうしたことは、ただ実在ではないことを、考えているだけ、ということができます。ということは、そうしたことよりも大事なことが、人にはあるということかも知れません。
さまざまに生起するかのようにみえる物事は、依拠するという経験として、自分が成長するために、役立てることもできるけれど、移り変わり行くものは必ずこの意味で、実在ではありません。実在でないものは、なにかに依ってのみ、この世界に現象することができます。
その意味で、すべて、ありとあらゆる総てがあるのが、この世界です。
世界はそうでなければ、なりません。
世界はその総てをして、人にそれ自身を学ばせてくれると言えます。
ここで、問題は常に、自分です。
そして
ある時ふいに
なにかが、その自分に、起きるかも知れません。
何だ?
一体、何だったのだろう。
事態の不可思議に、真正面から、気付くとき。
未知ながらの道、そのものが
深く、深く、その内奥から見出されたとき。
すべての事象は
もしかすると
まるで何事も起きていないかのように
ときに激しく
新たな息遣いを持って迫ってくるかも知れません。
喜び
悲しみ
怒り、笑い
日常に生きて
身体はやがて、朽ちていきます。
一体
どういうことでしょう。
人はそのとき、どこにいるのでしょう。
人って
なんでしょう。
そこから、始まります。
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